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エドワード・サイード『オリエンタリズム
』平凡社ライブラリー、1993.
・・・全人類必読の書。とりわけヨーロッパ研究者とヨーロッパ人は絶対読むべし。註が下巻にまとまっているのが欠点だが、このヴォリュム、内容でこの値段はすごい。翻訳も秀逸で、今沢紀子さんには深く感謝したい。この翻訳を読んで「難しい」と思う人がいるのだろうか。これほどストレートな翻訳を僕は知らない。サイードは初めから日本語で書いたのかと思ったくらい。はっきり言おう、分からない箇所が一つもなかったと。仮に誤訳やタームの多義性を移せていない箇所があったとして、それで翻訳の価値は減ずることがない。その場合、読み手の想像力を糾弾すべきだ。ああ、どっちにも取れるな、と思えたらそれで良いじゃないか。
fore thoughts 1
日本の人はとても親切ね。英語が通じなかったとしてもすごく一生懸命道を教えてくれたりするもの。とダークブロンドの彼女が言ったとき、僕は成田エクスプレスの到着ホームでふと考えた。アジア、アフリカ、あるいは南アメリカ大陸から来た人間も同じように感じることはないだろう、と。単に僕の狭量ですめばそれで良い話なのかもしれないけれど。
fore thoughts 2
僕のヨーロッパ愛は強くて、もはやそれ以外の場所には行くことがない。もちろん旅行というようなものでもなくて、何とかその風景に入り込むことは出来ないかという切実ささえそこには含まれている。しかし何と言ってもヨーロッパは、とりわけ西ヨーロッパは人種差別主義と訳されるのが適当なレイシズムの本場なのである。僕のヨーロッパ愛は遂には劣等意識の反転であり、持たざるものとして差別されることを許容しながら生かされる、あるいは許されることを嬉々として受け入れているだけ、なのか。行くな、行くな、ヨーロッパなんて。
fore thoughts 3
おそらくO.J.Simpsonは有罪なのだ。人を殺しているのだ。彼はアメリカン・フットボールのヒーローとして許容され、名誉白人として「白い」妻を娶ることが許された。彼が裁かれないことは黒人にとっての勝利としてなのだ、とインタビュに答える黒人が言った。待て、それは一旦白人のカテゴリに含まれたものはすべての罪を免れる特権的な場所に立たされているということではないか。つまり白人・男性という位置に。
fore thoughts 4
Michael Jacksonが手術を繰り返したか、それともただ三度だけオペを施されたのか、という回数の問題ではない。彼が白人になりたかったのだとしたら、それは彼を肉体的・精神的にディフォームしたのだし、そうでなかったのだとしたら、彼をそう見る社会にディフォームされたのである。どちらも悲劇だ。いずれにしても彼は社会に殺された。
body
人種差別はヨーロッパの特産品だと思う。だから僕は自分が人生の割合大きな部分その言語を一つ選んで勉強したことについて、わずかに痛痒を覚え、それは次第に広がり、いつしか憎悪に成り代わるのではないかと思っている。というか、恐れている。
モノの見方は教育や刷り込みによってなされている。モノの見方は多様な意味・機能の体系の中で形成されている。どちらも前提として人が生まれる前に用意されていることが多い。とりわけ後者をディスクールと呼んでも良いけれど、特殊な言葉使いなので出来れば避けた方が良い。フーコーを分かるにはまずスキンヘッドにする必要がある。冗談だけれど、冗談じゃない。人のタームを理解する覚悟を示せ、ということ。これは繰り返しになるので省く。
表層的に、学術的に『オリエンタリズム』を学術研究に関わる人が援用する際に気をつけなければならないのは、恐らく引用するにあたってサイードと同じ立場でこれを言表することが出来る立場にいる人はいない、ということだ。僕達にとってパレスティナの問題は遠く、サイードにとって深い。端的にいえば、彼の恨み節の集大成であるのだから、相当な注意をしなければこれを取り込んではいけない。
でもサイードは個人的な恨みを表出することで、問題を解決できると思うようなおめでたい人ではないから、そういう書物にならないように最大限の注意をしている。しかし、である。書き手が注意し、そして読み手も注意をするのでなければ、この本は危険だ。
さらに『オリエンタリズム』は最終的にはオリエンタリズム(サイードの言うモノの見方、学術、政治的に利用されていった思考のスタイル)だけを取り上げているのではない。むしろ今カッコの中に入れたものは世に蔓延している。ユダヤ人は鉤鼻だの、アフリカ人はセックスがすごいだの。さらにもっと怖いのは「○○(の人)はちょっと違う」という時のちょっとだ。多分これは西日本でなければ分からないかもしれない。表象されないことの方が、根が深い。
そういった意識されないフレーミングを問題としている『オリエンタリズム』に感銘を受けた人なら、サイード研究、アラブ研究、広くオリエント研究(オクシデント研究がない不均衡)に関わる人を別にすれば、本書は他者論の重要な礎(誤変換で「意志杖」と出てきた)であり、おそらく他者表象のタクティクスには殆ど共通している差異化のテクネが盛りだくさんなので、そういう使い方をされるべきだ。すべての差別は根が一緒。
after thoughts 1
サイードが何を語りたかったか、を抜きにして単なる学術研究書として利用する道は本書にはない。
after thoughts 2
オリエンタリズムに対し、それを拡大反復したオクシデンタリズムを作ったとしても意味はない。
after thoughts 3
僕など短絡的なので、「じゃあ、今日から5年間役割を入れ替えてみたら」というようなことを思いもする。けれど報復になるような枠組みの再利用に堕することは目に見えている。そうだ、目に見えなかったものを意識すること。そこから始めれば良い。他者に出会ったヨーロッパ人が「こいつら、人間じゃねえ」と思ったとき、他者を人間だと思ったからそう言ったのだ。そしてこう言わせた惧れが、ずっと僕達の他者表象や他者との関係性の構築に内包されている。
三浦しをん『仏果を得ず
』双葉社、2007.
・・・伝統芸能モノ、というジャンルがあるのかどうか。佐藤多佳子さんの『しゃべれどもしゃべれども
』が落語、三浦さんの本書が文楽、このちょっと異世界というか、僕のように花柳界上流社会に縁のない人間にはみやびやかにしてバサラ、奇矯にして豪奢華麗な世界を覗く事はなかなか出来ないのだけれど、それはさておいても自分に縁のない世界に足を踏み入れるというのは愉しい体験で、それを小説の中で体験できるというのはすごい。小説はすごいなあ。三浦さんは普通なものを普通に、奇妙なものを奇妙に、ととにかく器用に書き分けられる方なのだが、その本気を見たい見たいと思っていた。僕としては装丁ならびに目次も可愛い本書の方が、書き巧者の彼女のちょっとしたこだわりの淵を見せられたようで嬉しかった。

